まじない
ヒモシッポの昔の話です
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バックライトに照らされて、ステージ上で 微笑んだ。丸いステージ上に彼は立っていて、その円周を、余すところなく観客達が取り囲んでいる。
黄色い声援が会場の壁にぶち当たって反響した。
けたたましい拍手の音が、一つの大きなうねりになって、会場内でとぐろをまいた。
彼は背中に掛けた赤いマントをたなびかせる。額のゴーグルがライトを受けてキラキラ光った。
「今日は来てくれてどうもありがとう。どうぞ楽しんで行って!」凛と透き通る、少年らしい声でマイクに喋った。観客が沸いた。
スパイク付きのスニーカーを、トントンとやって見せつける。ステージの前へ乗り出した。彼のつま先から、ファッションショーのランウェイみたいな、長い通路が伸びている。
1歩1歩、そのランウェイを踏みしめた。目前を見つめて華やかに彼は笑った。
本物のヒーローショーが見られるなんて、ここに居る客は本当にラッキーだ。
司会がおどけて言った。
会場の照明が落とされる。
壁の大きなスクリーンが白く光った。
芝居が始まる。
そこには、大きな檻に閉じ込められた巨大なネズミが映し出されている。
そいつは檻を破壊しようと、柵に突進を続けていた。
ある男が、その暴れネズミを討ち取ろうと、檻の外から拳銃を向ける。
またある男は、長い槍を差し込み、巨体めがけ突き刺した。
どちらも徒労に変わりなかった、瞬く間に弾丸は巨体に弾かれ、槍は巨体にへし折られた。
「ぎゃああ!」
「ひいいい!」
2人はネズミに触れてすらいなかったが、突然悲鳴を上げ、不可解にも倒れ込んだ。肌には、病独特の黒い斑点が浮かんでいる。立つことさえもままならぬ様子で、苦悶の表情を浮かべた。
「ご来場のみなさん、どうかお静かに!」
「おい!そいつらを医者に連れていけ!」
「このままじゃ皆ネズミの病にかかっちまう!」
檻のネズミは衝突を続ける。 檻の柵はぐんにゃりと曲がりつつあった。
気がつくと、客席の中央に役者が立っていた。
録音された声じゃない、その人は真に迫る声で叫んだ。
「みなさん!どうかお逃げになって!きっとあいつは檻を破ります。そして全てを打ち壊してしまう!」
会場が静寂で包まれた。
それを突き破るように、ランウェイの1点を、
スポットライトが照らした。
その1点に彼はいた。
観客達は白熱した様子で、騒ぎ立て拍手した。
なりやまない拍手の中で、はっきりと声が鳴り響いた。
「僕が、みなさんをお守りしてみせましょう。」
彼はランウェイを歩く。表情は見えない。
おもむろにポケットに手を入れて、何か振り上げる。ー指先から、弾き出された。 金色のそれは、会場内の真上へと跳ね上がり、 暗い会場の中でキラリと光って見せた。
それは彼のまじないらしい。
観客のひとりが呟いた。それは声援でかき消された。
さぁ、ショーの始まりだ。
ーーーーー
それは昼下がり、灰色のすすけたコンクリートをペタペタと踏みしめながら、黒い影は廃墟郡を歩いていた。
空はいつも通り灰色で、気だるい雰囲気を匂わせている。
生ぬるい風が、黒い毛並みを撫ぜた。額のゴーグルが、灰色の空を映した。
ここは繁華街だった。
だが、どの店もシャッターを固く閉ざし、錆び付いたネオン看板はただひたすら崩落の時を待っている。
「…」
何が独り言でも言ってみようと思ったが、何も口から出てこなかった。この街に住み着いてから、すっかり考える事や、喋る機能が退化したと思う。
路肩に崩れ落ちて転がった、黄色い酒瓶ケースに目をやった。その先には"めしや"の文字が見える。
(メシ…)
考えることや喋る機能が退化しても、空腹には逆らえない。体の機能はちゃんと動いてる。
このところ、まともなものは何一つ食べていなかった。ボロ屋をうろつく際に、日切れの缶詰やコンソメを見つけることはあったが、それは稀であった。
やっぱり引き返そう。
体がどうしようもなく重い。
どうせ歩いたって、人っ子ひとり見つけられないし、同じ景色が続くだけだ。こんな無意味な事は無い。
部屋に戻れば齧りかけのコンソメと、そこらでちぎった雑草がしまってあるはずだ。それで凌ごう。
そうすると彼は、この大通りを曲がって、暗い路地裏の中へ紛れていった。
彼の寝床は、建物と建物の間、人ひとり通れる程の隙狭苦しい隙間に健在している。
彼はその隙間を通り切ると、裏口じみた簡素なドアの、少し高い位置のノブを回した。
はあ、やってらんねえ。
取り残されたベッドに沈みこんで、そう心で呟いた。
この部屋にも いい加減うんざりしていたが、どこを探しても、結局此処にしか居場所は無いんだろう。
過去を羨む訳じゃないけど、今は食べる事はおろか、眠ることさえ上手にできなかった。
昔は色々持ってた。何でも出来た。
誇張してるわけじゃない。それも全部、自分で捨てちゃった訳だけどさ。
殺風景な部屋の中、ペラペラと剥がれ落ちそうな天井の壁紙を眺めながら、ずっと黙ってた。この部屋にはベッドしか無かったから、やることはそれ位しか無かった。
「あーあ、もうやめちゃおっかな。」
独り言だった。久しぶりに出してみた声は、昔の自分の影もなくて、みっともない位にしゃがれてた。
あーあ、いいじゃん、もう充分頑張ったんじゃない。 だってもう、疲れたもん。
長い放浪の末、この街にたどり着いて暫くの時が流れた。疲弊していた。どこか別の場所へ歩いていく気力がなかった。それに、この街には何も無かったが、それが彼にとっては丁度よくもあった。
もう、大事なものを一つも持っていなかった。
部屋に唯一ある、このフカフカのベッドを手放すことは惜しかったが、それ位だった。
思い残すことは何にもないし、悔しいとも思わなかった。
ボロボロの毛並みを預けて、ベッドの上で
うずくまった。
死んでしまいたかったが、苦しいのは嫌だった。
もう歩きたくない、お腹も空きたくない、目を瞑ったらいつの間にか、全部消えちゃってればいいのに。
その時だった。かすかに物音がしたのだろうか、黒い耳がピクリとひきつった。自分の意思と反して、勝手に音を聞き取ってしまうわけだから、ネコの習性ってホントにありがた迷惑。
どうせ、風の音が何かだろう。そう聞き流そうとしたのだが、なんとなく気が向いて聞き入ってみた。
それはかすかな声だった。
次に、ドアノブに手を置く音が聞こえて、キイィと、ドアの軋みが部屋に響いた。
ー誰がが部屋に入ってきた!
こんな事、この街にやって来てから1度もなかった。
人っ子ひとり見かけなかったのだから、当たり前だ。
「もしもし」
誰かが言った。
心臓が冷水に浸かったみたいになって、ぎくりとしたまま、俺はうずくまった。その声の主に背を向けて静止した。この街に人間が居たのか?
ーそれか、幽霊か何かだろうか、
憂鬱な俺を仲間だと思って、寄ってきたのかも。
しばらくそのまま、俺と声の主は この四角い箱部屋の中で暫しの間固まっていた。
俺が反応しなければ、死体か何かと勘違いして相手はこの部屋を去るだろう、つまり、やりすごそうとしたのだ。
薄暗い部屋の中、声の主によってわずかに開かれた隙間からは、陽の光が洩れて、くだらないフローリングに柔らかい色の直線を落としている。
声の主はその光の中に居た。
「お兄ちゃん、どっからきたの?」
子供の声をした そいつが問いかけた。
そいつはずうっとそこに立っていて、こちらの返事を待ち続けている。
俺はベッドでうずくまったまま何も言わなかったし、ピクリとも動こうとしなかった。そのまま2人、黙ったまま静止し続けた。
だけど、しばらくの間そうしてから、狸寝入り、または死体のフリを続けるのは無理があったな、と今頃気がついた。
要するに、根負けだった。
俺は、気だるい体をゆっくりと起こして、
何でもないように、のそりと振り返った。
ドアの隙間には、小さな子供が突っ立っていた。
そいつは、やわらかそうな白い毛並みと、ピンと伸びた三角の耳を持っていた。体に合わない、大きなパーカーの袖を余らせて、こちらを見ていた。
幽霊じゃなくて、ネコだったか。
不思議な感慨にひたりながら、なんて答えようかな、なんて考えつつ 、そいつの黒い目を見てた。
「遠くから」
しゃがれていて、かすかなその声を、そいつまで届いたかどうかは分からない。
「ふーん…」
白い子猫は、ただそれだけ呟いて、俺の顔をまじまじ見ながら突っ立っていた。
(おい、なんだってんだよ。)
そうするとそいつは、パタパタこちらに走ってきて、身の後ろに隠していた 丈の長い釣竿を俺の方に押し付けた。
「これ、釣竿」
(しってるよ。)
うっかり受け取ってしまった。
そいつは俺を見上げて、腑に落ちたように、うんうん、と首を縦に振った。
(どうしろってんだよ。)
表情筋が死んでいるから、うまく伝えられたかは知らないが、困惑の意をめいいっぱい、顔面に乗っけてみせた。だが、そんなことはそ知らぬ顔で、そいつは続けた。
「お腹減った。」
ーだから手伝って。
ぐぅ、と鳴り出しそうな腹をちょっと抑えて、 気の抜けた声でそう言った。突然やってきて何なんだ、お前、突拍子のない事を知らない人に言うもんじゃない。文句の一つでもいってやりたかったが、そいつの腹には同感できた。
キューオ、キューオ、カモメが鳴いて、
ゆるやかな風が雲を遠くへ流していった。
開けた空は、いつのまにか青色1色へと変わっている
2匹は、昼下がりの午後を、港沿いにゆっくり歩いていった。
やわっこい日差しが海と港に差し込んでる。
柔らかなその空気に、ちょっと毛皮がむず痒くなって、ポリポリと頭の後ろを掻く。
きまりが悪い俺と対照的に、
白色のそいつはツンと済ましている。
まゆをピンと張ったまま、広い海を見てた。
しばらく、海を横目に歩いた後、ここに決めた と、その簡素なコンクリートに、あぐらをかいて、目前の海を見た。
こいつ、どこに住んでるんだろう?
こんながらんどうの街に、1人で住んでるなんてことはないだろうな。
当のそいつは黙ったまま、
自分の釣竿を振り上げて、水面に浮きを落としてた。
釣竿はどこかからくすねてきたのだろか、多少年期が入っているが、いい物だ。
「釣り、できんの?」
今度は俺が問いかけた
「できるよ。」
ふーん。
「いっつも勝ってる!」
釣りにも勝ち負けがあるのか、たしかに、魚に逃げられて食い損なったら、それは負けになるなあ。
そんなことを思いながらも、
俺もそいつに習って、針糸をたらした。
「じゃあ今日も勝たなきゃな」
「塩焼き!」
既に鳴った腹を抑える事も忘れて、俺は浮きを凝視し続けた。
ーだが、俺の浮きはいつまでたっても揺れなかった。
""俺の浮きは""
横のそいつは、随分と調子がいいようで、今、5匹目のシシャモを釣り上げようとしている。
さっきまで、俺と一緒に 死んだ顔で浮きを眺めるだけだったくせに、突然のフィーバー。今では殆ど入れ食い状態。はてはて、俺 、手伝う意味あんのか?
眉をひそめる俺を尻目に、例のそいつは
俺の横で口を抑えて笑ってた。
ひひひ。
シシャモをつまみ上げて、俺に見せびらかす。
そのバケツには魚が満杯で、元気にスイスイ泳いでる。
一方、俺のバケツは寂しいものだった。満杯なのは水だけで、この港の真上、青空の中 泳ぐ雲をを映すのみ。
男の意地にかけても、1匹くらいは何か、釣ってみせたい所だった。
その時!
俺の手元の釣竿が、ピクピクとしなった、と思ったら、勢いよく浮きが水面へと沈んだ!
「食った!!」
思わず叫んだ。リールを回して獲物を手繰り寄せる。
なかなか持ち上がらない、どうやら大物のようだ。
「うそ?!」
釣り上げたシシャモをバケツに移しながら、そいつは口を開けて驚いた。
どうだよ見たか。
一瞥すると、横のそいつはピョコンと跳ねて、俺の釣竿を横から掴んで手伝った。
「も、もうすこしだよ!見て!」
水面から、張り詰めた釣り糸が直線に伸びている。少しでも引き具合を間違えれば、たちまちプツンと切れてしまいそうだ。
「もうちょっと、もうちょっと…!」
身を乗り出して浮きの先を見ている。
その顔は懸命だった。熱っぽく、釣竿を掴む手に力が加わる。
もう少し、もう少し、…
あ!持ち上がった!
釣り針に絡まっていたのは、
水草の塊であった。
それは小汚いビンに絡み付いていて、だらんと釣針から垂れている。
ゴポン、鈍い音がして、水面の底から流木が浮き出た。それは海の流れに沿ってぷかぷか消えていく。
どうやら水底に引っかかった流木に、
釣針が絡んでいたらしい。
「だめじゃん、」
そいつが口を尖らせて言った。
全く持ってその通りである。
落胆しつつも、釣針を引き上げてみる。
一応、俺の釣り上げた獲物だ。傍らに置いて、
水草を摘んだ。ビンは泥まみれで、中身は良く分からない。
手紙でも入っているのだろうか、
別に、そんなもの読んでも どうにもならないけど。
王冠をつまめば、カタカタとゆるんで、取れた。
ビンを逆さに返す、濁った海水がトポトポとコンクリートに流れ出た。水を得たコンクリートが色を濃くして湿った。それだけだった。
悪あがきはやめた、認めるって、
とどのつまり、やっぱり、ただのゴミなのだ。
気が済んだ俺は、再び勝負に挑むべく、
(ムキになってる訳じゃない、メシが無いのは死活問題だ)釣針に絡んだ水草を解くべく、釣竿に手を伸ばした。
カラン、
それと同時に、傾いた手元から、ビンの王冠が転がった。それはそのまま、2人を横切り、どんどん遠くへ走っていった。
すると、
殆ど反射だろう、横の白いそいつは、手足をしっちゃかめっちゃか にして、一直線に伸びるコンクリートのバース奥を注視しながら、動物っぽく四足を地に着けた。
どういう訳か、違和感があった。
腹が減って気が滅入っているのだろうか。
俺は釣針を地面に放って、それに見入った。
そいつは野良らしく、四足のまま、ぐぐっと肩を落とした。ハンティングの構えだ。
くりくりとした黒い目が細まって、転がっていく王冠をじっと捉える。
俺には、そいつが立つ、簡素なコンクリートの道が、ランウェイに見えた。 それは そいつの四肢から真っ直ぐ1本に伸びていて、黒い目はその先の、見えない小さなネズミを捉えてる。
それを見ながら俺は何か、いや、なんだっけ、何か、それに見覚えがあって、さざなみ の音も、カモメの鳴き声も、何も聞こえなくなって、待ってくれ、すごくやなこと、思い出しそうなんだ
あ、飛びかかった
ー人々の、渦みたいな歓声が轟いて、
飲み込まれてしまいそうだ。一歩一歩が重い。
僕はランウェイを歩き続けた。
目前には巨大な檻がある。
ボクシングのリングより、一回り大きなそれは、無機質な鈍色で、見上げるほどの高さがあった。
その中で、ネズミは僕を待っていた。
まるで大人の猪だ。化け物じみたその巨体はずんぐりと硬そうで、毛は逆立っている。身を強ばらせて、対極する僕に向かい、ぎぃぃぃ。と鳴いた。
僕は今から、この化け物を殺さなきゃならない。
反芻した。その言葉は、染み渡ることは無かったが、胸に張り付いて剥がれなかった。
やがてランウェイは終わり、檻の中へ踏み込んだ。
扉が閉められる。僕は閉じ込められた。
「……せ! **◎*△△*!こ~〜…せ!」
観客たちが、口々に叫んだ!
聞きたくなかった、とっても悲しくなる。奴らはくだらないことを叫んでる。
僕はとっさに、目を閉じて、ここじゃない場所のことを考える。広くて遠い、どこか別の場所の事だ。行ったことは無いけれど、いつも思い浮かべるのは港から見る広い海だった。そうすると、心がスッとして、余計なことを考えなくて済むから。
そうして何も感じなくなった、僕の瞳の表面には、じわじわと灰色の塊が、着実に押し迫って来る。
げっ歯類特有の、長く伸びた歯をガチガチ鳴らして僕を脅している。動物的な本能のまま、目の前の手頃なおやつをぐちゃぐちゃにへし折って、嬲るつもりだ。
当たり前だ、この不快な竜巻みたいな喧しさの中で、突然放り込まれて 見世物にされてるんだから。
あちらがそのつもりなら、今すぐにでも飛びつき、切り裂かれてしまうだろう。それ程、ふたつの距離は際どいところまで詰められている。
獰猛な塊を間近に、変に僕の頭は冴えていた。
観客の喧しい声も、ステージライトのまぶしさも、入ってくるのに感じなくなって、目前の化け物だけが、今の僕のすべて感じた。
ー化け物が、わずかな所で歩みを止める、
西部劇のガンマンみたいに、沈黙に身を沈め、
張り詰めた空気の中 2匹向かい合う。
パァン!
ミミズみたいな野太い尻尾を床に叩きつけた。
それはきっと合図だろう。
その発砲音は、僕が感じた最後の音だった。
そいつより早く、地面を蹴りあげる。
舞った砂埃が、わざとらしいライトの中で銀色に光った。
僕はただの動物だった。その巨体めがけ、ケモノじみた四つ足で突っ込んだ。
そしてまた、相手も身を震わせて打ち込んできた!
すんでのところで、僕は赤いマントごと身を翻した。
まるで闘牛士だ。
飛び上がり真下の化け物を見ると、行く宛の無くした剛力に引っ張られ、 檻の柵に突進する直前だった。
振り下ろした、
巨大なネズミの背に、僕の爪がめり込んだ。
肉をえぐる不快な感触が、爪から全身に伝わって、ぞわりと体を震わせた。
そのまま横腹へスライドすれば、赤いドロドロが飛び散って、僕の額のゴーグルを汚した。
ガシャンガシャン!
そんな程度じゃ、その化け物の生を剥がすことは到底叶わない。ネズミは死なない、必死に生きようと無我夢中で檻を駆け、ー壁に飛びついた!
血液を撒き散らし、檻の柵を頑丈そうな手先で掴んだ。重い体で壁を駆ける、逃げた訳じゃない、
ネズミは僕を見据えた。
眼窩には、吸い込まれそうな鉛玉が嵌められていた。僕もまた、それを、じっと見上げた。目を逸らせなかった。
奴が壁を蹴った。
到底叶わない、圧倒的な暴力で
鉄の塊、まるで自動車
巨体が飛んでくる。
その切っ先が、僕の頭を捉える。
気がつけば鼻先に巨大な鉄の塊があった。
僕は高飛びの選手みたいに、仰け反り後方へ跳ねた。
ネズミの太い爪が、僕の額を狙っている。
血塗れのゴーグルが、そいつの剛腕に捕えられた。
剛腕は急降下し、額に掛かったゴーグルを抉る。
重く太い爪が、幅広のレンズにくい込んで、大きな穴を開けた。
巻き添えをくらった僕の体は、そのまま地面に叩きつけられる。
巨体の足元で必死に転がり
轢かれる寸前で身をよじった
身を低くして、体制を立て直す。
歪な穴を貰ったゴーグルをぐいと 掛け直した。
頭に穴が開かなくてよかった。
やり損ねた、と化け物は、少し距離を空け、
機を伺っている。
心なしか、よろりと、立つ足が歪んでいる。
それを観察しながら僕は、
その場にしゃがみ込み、手をついた。
今頃、叩きつけられた体がジンジンと痛む。
心が麻痺していても、体はそうはいかない。
耐えかね、軋んだ腕の骨を抑えた。
右肩をふと見ると、出血していた。
いつのまにか、太爪の餌食になっていたらしい。
肩に掛かるマントを引き寄せて、それを覆い隠す。
歪んだ顔を取り繕いながら、
必死に化け物を睨みつけた。
だが見透かされている。
無音の中、化け物の鉛玉がが弧を描いた。
笑っている、笑ったように見えた。
巨体が揺らぐ、
第二弾が来る、轢き殺される!
鉄塊が押し迫る!
「殺せ!!!!!!!」
観客が叫んだ!
ぶわっ と、僕は肩から布切れを切り離した。
右の負傷を押し隠していた、深い赤。
それは二匹の間に広がり、化け物から僕の体を隠した。
そんな布切れはくれてやるよ。
化け物は布切れに突っ込んだ。布切れで鉛玉の目を隠したまま、僕の真上を飛躍した。
可哀想な化け物の喉元に、潜り込んで切り裂いた。
ぷしっ
誰かにいたずら するために、サイダーの入ったジュースを振って 、吹き出させた時みたいな音だった。真っ赤なあぶくを吹き出しながら、そのネズミは地に伏せた。まだ、手足をジタバタと動かしている。けれどもう、立つことは出来ないみたいだ。
僕の爪先には、殺鼠剤が塗りこんであった。
それは即効性で、タリウムと、近頃開発された対鼠用の薬剤が混ぜものだった。
檻の柵を縫って、スポットライトが僕を照らした。
はああ、と大きく息を吐き出すと、しだいに緊張が解けて、周りの音がわかり始めた。
くだらない八百長試合のラストに、飽きず、観客が、盛り上がり騒いでいる。
僕は何でもない風を装って、地面に散った赤いマントを肩に羽織った。まるでヒーローみたいな優しい顔を演じて笑った。
檻の戸が開かれ、僕は意気揚々とそれをくぐった。
左右に顔を向け、手を振ってみせる。皆すごく喜んだ。
拍手喝采が鳴り止まない。だけど僕の心はしんとして、檻の中に目をやった。ピクピクと痙攣する、ネズミの毛羽立つ耳を見た。こいつも、この拍手を聞いているのかな。
そのまま僕は、何にも知りたくなくなって、ポケットの中、収まったお守りに手を触れた。
それはビンジュースの王冠だった。金色の肌をしたそれは、僕の勝利の願掛けだった。
僕は勝ちたかった。この、くだらない勝負にじゃない、生き物として、勝ちたかった。この泥沼から抜け出したかった。
僕はずっと観客たちの輪に閉じ込められている。
あーあ、爪の隙間に赤黒いのが残ったままだ。洗っても洗っても取れなくて困る。こんなんじゃモモコに会いに行けない。
檻の前で手を振る僕の横へ、
司会がマイクをかざす。
今回はちょっとヒヤヒヤしたよ。まぁ、エース君が勝つことは、みんな分かっていたけどね。どうだい、久しぶりに大きいステージでネズミ捕りをするのは。緊張したかな?
はい、僕もちょっと危ないな、とは思ったけれど、相手が途中よろけたので助かりました。
やっぱり、沢山の人に観られてると、ちょっとは固くなっちゃいますね。
はにかんで、客席の黒いシルエットを見た。
くだらない問いと応答を繰り返した。
それはずっと続いた。
早くモモコの所へ帰って顔を見せたい。
彼女は目が見えないから、正しくいえば、
顔を見せることは出来ない訳だけど、
… でもきっと、お土産話を持って行くよ。僕が大きいネズミに噛まれそうになった話がいい?大丈夫だよ、僕は怪我をしてないし、そいつも怖がって噛んだだけなんだ。…
僕はまじないをきつく握ったまま、ステージに立ち続ける、
…
ー俺は目を伏せるようにして、バケツの中を覗いてた。もちろん魚なんて泳いでいない。かわりに、変わりに目つきの悪い、ボサボサの黒猫が映ってた。
思えば嫌なことだらけだった。輝いていたのは全部上部だけだ。
お守りとはなんだっただろうか?今となっては全く思い出せない。
「みてた?」
じゃれ遊んでいたそいつは、フフンと小さな鼻をならしてみせた。
「カッコよかったでしょ」
そうだね。
「そうだ、それ、ちょっと弾いてみてよ!」
仕留めた王冠を俺に渡しながら、
少しなつっこく、そいつが言った。
どうやら、ご自慢の反射神経でみごとキャッチしてやろうという心づもりのようだ。
はいはい、
俺は言う通りに、王冠をピンと指で弾いて、手のひらから上に飛ばそうとした、その時だった!
あっ!
ぶわっ、と 汗が吹き出した。冷や汗か、脂汗か、これがどんな感情による物なのかは分らない。心臓がうるさくドクドクなって困る。
右の手のひらに乗る王冠を、汚い泥だらけのそれを、俺は、壊れ物を扱うみたいに、親指でそっとなぞった。
泥の下には、見覚えのある金色の肌が覗いた。
ー王冠は俺のまじないだった。
そいつが、どうして飛ばしてくれないの?と言わんばかりにこちらを伺った。
俺は王冠を弾いてやるのをやめてしまう。
かわりに、わざと砕けた風に声を上げた
「これもーらった。」
そして、右のポケットに仕舞ってしまった。
「あー!!!」
なんでしまっちゃうのさ、そいつが不服そうに頬を膨らませるのを一瞥して、ちょっとだけ笑った。
「まじない」
そう呟いて、水面のウキを見た。依然、反応は無い。まじないが有ったって、いつも必ず勝てるとは限らないのだ。
あの時のまじないは、モモコにやってしまった。モモコが勝てたどうかは分からない。いいんだ。もう昔の事だから。
関係ないから、もう何も。
遠く青い海を眺め続けると、心がスッとした。やっぱり考えるのって疲れる。
ポケットの中の王冠を、うっかり海に、投げ捨ててしまおうと、ポケットに手を差し入れ触れてみたが、どうしてもそれはできなかった。
浮きは沈まない。
魚は、いつまでたっても掛からなかった。
2017/3/21
黄色い声援が会場の壁にぶち当たって反響した。
けたたましい拍手の音が、一つの大きなうねりになって、会場内でとぐろをまいた。
彼は背中に掛けた赤いマントをたなびかせる。額のゴーグルがライトを受けてキラキラ光った。
「今日は来てくれてどうもありがとう。どうぞ楽しんで行って!」凛と透き通る、少年らしい声でマイクに喋った。観客が沸いた。
スパイク付きのスニーカーを、トントンとやって見せつける。ステージの前へ乗り出した。彼のつま先から、ファッションショーのランウェイみたいな、長い通路が伸びている。
1歩1歩、そのランウェイを踏みしめた。目前を見つめて華やかに彼は笑った。
本物のヒーローショーが見られるなんて、ここに居る客は本当にラッキーだ。
司会がおどけて言った。
会場の照明が落とされる。
壁の大きなスクリーンが白く光った。
芝居が始まる。
そこには、大きな檻に閉じ込められた巨大なネズミが映し出されている。
そいつは檻を破壊しようと、柵に突進を続けていた。
ある男が、その暴れネズミを討ち取ろうと、檻の外から拳銃を向ける。
またある男は、長い槍を差し込み、巨体めがけ突き刺した。
どちらも徒労に変わりなかった、瞬く間に弾丸は巨体に弾かれ、槍は巨体にへし折られた。
「ぎゃああ!」
「ひいいい!」
2人はネズミに触れてすらいなかったが、突然悲鳴を上げ、不可解にも倒れ込んだ。肌には、病独特の黒い斑点が浮かんでいる。立つことさえもままならぬ様子で、苦悶の表情を浮かべた。
「ご来場のみなさん、どうかお静かに!」
「おい!そいつらを医者に連れていけ!」
「このままじゃ皆ネズミの病にかかっちまう!」
檻のネズミは衝突を続ける。 檻の柵はぐんにゃりと曲がりつつあった。
気がつくと、客席の中央に役者が立っていた。
録音された声じゃない、その人は真に迫る声で叫んだ。
「みなさん!どうかお逃げになって!きっとあいつは檻を破ります。そして全てを打ち壊してしまう!」
会場が静寂で包まれた。
それを突き破るように、ランウェイの1点を、
スポットライトが照らした。
その1点に彼はいた。
観客達は白熱した様子で、騒ぎ立て拍手した。
なりやまない拍手の中で、はっきりと声が鳴り響いた。
「僕が、みなさんをお守りしてみせましょう。」
彼はランウェイを歩く。表情は見えない。
おもむろにポケットに手を入れて、何か振り上げる。ー指先から、弾き出された。 金色のそれは、会場内の真上へと跳ね上がり、 暗い会場の中でキラリと光って見せた。
それは彼のまじないらしい。
観客のひとりが呟いた。それは声援でかき消された。
さぁ、ショーの始まりだ。
ーーーーー
それは昼下がり、灰色のすすけたコンクリートをペタペタと踏みしめながら、黒い影は廃墟郡を歩いていた。
空はいつも通り灰色で、気だるい雰囲気を匂わせている。
生ぬるい風が、黒い毛並みを撫ぜた。額のゴーグルが、灰色の空を映した。
ここは繁華街だった。
だが、どの店もシャッターを固く閉ざし、錆び付いたネオン看板はただひたすら崩落の時を待っている。
「…」
何が独り言でも言ってみようと思ったが、何も口から出てこなかった。この街に住み着いてから、すっかり考える事や、喋る機能が退化したと思う。
路肩に崩れ落ちて転がった、黄色い酒瓶ケースに目をやった。その先には"めしや"の文字が見える。
(メシ…)
考えることや喋る機能が退化しても、空腹には逆らえない。体の機能はちゃんと動いてる。
このところ、まともなものは何一つ食べていなかった。ボロ屋をうろつく際に、日切れの缶詰やコンソメを見つけることはあったが、それは稀であった。
やっぱり引き返そう。
体がどうしようもなく重い。
どうせ歩いたって、人っ子ひとり見つけられないし、同じ景色が続くだけだ。こんな無意味な事は無い。
部屋に戻れば齧りかけのコンソメと、そこらでちぎった雑草がしまってあるはずだ。それで凌ごう。
そうすると彼は、この大通りを曲がって、暗い路地裏の中へ紛れていった。
彼の寝床は、建物と建物の間、人ひとり通れる程の隙狭苦しい隙間に健在している。
彼はその隙間を通り切ると、裏口じみた簡素なドアの、少し高い位置のノブを回した。
はあ、やってらんねえ。
取り残されたベッドに沈みこんで、そう心で呟いた。
この部屋にも いい加減うんざりしていたが、どこを探しても、結局此処にしか居場所は無いんだろう。
過去を羨む訳じゃないけど、今は食べる事はおろか、眠ることさえ上手にできなかった。
昔は色々持ってた。何でも出来た。
誇張してるわけじゃない。それも全部、自分で捨てちゃった訳だけどさ。
殺風景な部屋の中、ペラペラと剥がれ落ちそうな天井の壁紙を眺めながら、ずっと黙ってた。この部屋にはベッドしか無かったから、やることはそれ位しか無かった。
「あーあ、もうやめちゃおっかな。」
独り言だった。久しぶりに出してみた声は、昔の自分の影もなくて、みっともない位にしゃがれてた。
あーあ、いいじゃん、もう充分頑張ったんじゃない。 だってもう、疲れたもん。
長い放浪の末、この街にたどり着いて暫くの時が流れた。疲弊していた。どこか別の場所へ歩いていく気力がなかった。それに、この街には何も無かったが、それが彼にとっては丁度よくもあった。
もう、大事なものを一つも持っていなかった。
部屋に唯一ある、このフカフカのベッドを手放すことは惜しかったが、それ位だった。
思い残すことは何にもないし、悔しいとも思わなかった。
ボロボロの毛並みを預けて、ベッドの上で
うずくまった。
死んでしまいたかったが、苦しいのは嫌だった。
もう歩きたくない、お腹も空きたくない、目を瞑ったらいつの間にか、全部消えちゃってればいいのに。
その時だった。かすかに物音がしたのだろうか、黒い耳がピクリとひきつった。自分の意思と反して、勝手に音を聞き取ってしまうわけだから、ネコの習性ってホントにありがた迷惑。
どうせ、風の音が何かだろう。そう聞き流そうとしたのだが、なんとなく気が向いて聞き入ってみた。
それはかすかな声だった。
次に、ドアノブに手を置く音が聞こえて、キイィと、ドアの軋みが部屋に響いた。
ー誰がが部屋に入ってきた!
こんな事、この街にやって来てから1度もなかった。
人っ子ひとり見かけなかったのだから、当たり前だ。
「もしもし」
誰かが言った。
心臓が冷水に浸かったみたいになって、ぎくりとしたまま、俺はうずくまった。その声の主に背を向けて静止した。この街に人間が居たのか?
ーそれか、幽霊か何かだろうか、
憂鬱な俺を仲間だと思って、寄ってきたのかも。
しばらくそのまま、俺と声の主は この四角い箱部屋の中で暫しの間固まっていた。
俺が反応しなければ、死体か何かと勘違いして相手はこの部屋を去るだろう、つまり、やりすごそうとしたのだ。
薄暗い部屋の中、声の主によってわずかに開かれた隙間からは、陽の光が洩れて、くだらないフローリングに柔らかい色の直線を落としている。
声の主はその光の中に居た。
「お兄ちゃん、どっからきたの?」
子供の声をした そいつが問いかけた。
そいつはずうっとそこに立っていて、こちらの返事を待ち続けている。
俺はベッドでうずくまったまま何も言わなかったし、ピクリとも動こうとしなかった。そのまま2人、黙ったまま静止し続けた。
だけど、しばらくの間そうしてから、狸寝入り、または死体のフリを続けるのは無理があったな、と今頃気がついた。
要するに、根負けだった。
俺は、気だるい体をゆっくりと起こして、
何でもないように、のそりと振り返った。
ドアの隙間には、小さな子供が突っ立っていた。
そいつは、やわらかそうな白い毛並みと、ピンと伸びた三角の耳を持っていた。体に合わない、大きなパーカーの袖を余らせて、こちらを見ていた。
幽霊じゃなくて、ネコだったか。
不思議な感慨にひたりながら、なんて答えようかな、なんて考えつつ 、そいつの黒い目を見てた。
「遠くから」
しゃがれていて、かすかなその声を、そいつまで届いたかどうかは分からない。
「ふーん…」
白い子猫は、ただそれだけ呟いて、俺の顔をまじまじ見ながら突っ立っていた。
(おい、なんだってんだよ。)
そうするとそいつは、パタパタこちらに走ってきて、身の後ろに隠していた 丈の長い釣竿を俺の方に押し付けた。
「これ、釣竿」
(しってるよ。)
うっかり受け取ってしまった。
そいつは俺を見上げて、腑に落ちたように、うんうん、と首を縦に振った。
(どうしろってんだよ。)
表情筋が死んでいるから、うまく伝えられたかは知らないが、困惑の意をめいいっぱい、顔面に乗っけてみせた。だが、そんなことはそ知らぬ顔で、そいつは続けた。
「お腹減った。」
ーだから手伝って。
ぐぅ、と鳴り出しそうな腹をちょっと抑えて、 気の抜けた声でそう言った。突然やってきて何なんだ、お前、突拍子のない事を知らない人に言うもんじゃない。文句の一つでもいってやりたかったが、そいつの腹には同感できた。
キューオ、キューオ、カモメが鳴いて、
ゆるやかな風が雲を遠くへ流していった。
開けた空は、いつのまにか青色1色へと変わっている
2匹は、昼下がりの午後を、港沿いにゆっくり歩いていった。
やわっこい日差しが海と港に差し込んでる。
柔らかなその空気に、ちょっと毛皮がむず痒くなって、ポリポリと頭の後ろを掻く。
きまりが悪い俺と対照的に、
白色のそいつはツンと済ましている。
まゆをピンと張ったまま、広い海を見てた。
しばらく、海を横目に歩いた後、ここに決めた と、その簡素なコンクリートに、あぐらをかいて、目前の海を見た。
こいつ、どこに住んでるんだろう?
こんながらんどうの街に、1人で住んでるなんてことはないだろうな。
当のそいつは黙ったまま、
自分の釣竿を振り上げて、水面に浮きを落としてた。
釣竿はどこかからくすねてきたのだろか、多少年期が入っているが、いい物だ。
「釣り、できんの?」
今度は俺が問いかけた
「できるよ。」
ふーん。
「いっつも勝ってる!」
釣りにも勝ち負けがあるのか、たしかに、魚に逃げられて食い損なったら、それは負けになるなあ。
そんなことを思いながらも、
俺もそいつに習って、針糸をたらした。
「じゃあ今日も勝たなきゃな」
「塩焼き!」
既に鳴った腹を抑える事も忘れて、俺は浮きを凝視し続けた。
ーだが、俺の浮きはいつまでたっても揺れなかった。
""俺の浮きは""
横のそいつは、随分と調子がいいようで、今、5匹目のシシャモを釣り上げようとしている。
さっきまで、俺と一緒に 死んだ顔で浮きを眺めるだけだったくせに、突然のフィーバー。今では殆ど入れ食い状態。はてはて、俺 、手伝う意味あんのか?
眉をひそめる俺を尻目に、例のそいつは
俺の横で口を抑えて笑ってた。
ひひひ。
シシャモをつまみ上げて、俺に見せびらかす。
そのバケツには魚が満杯で、元気にスイスイ泳いでる。
一方、俺のバケツは寂しいものだった。満杯なのは水だけで、この港の真上、青空の中 泳ぐ雲をを映すのみ。
男の意地にかけても、1匹くらいは何か、釣ってみせたい所だった。
その時!
俺の手元の釣竿が、ピクピクとしなった、と思ったら、勢いよく浮きが水面へと沈んだ!
「食った!!」
思わず叫んだ。リールを回して獲物を手繰り寄せる。
なかなか持ち上がらない、どうやら大物のようだ。
「うそ?!」
釣り上げたシシャモをバケツに移しながら、そいつは口を開けて驚いた。
どうだよ見たか。
一瞥すると、横のそいつはピョコンと跳ねて、俺の釣竿を横から掴んで手伝った。
「も、もうすこしだよ!見て!」
水面から、張り詰めた釣り糸が直線に伸びている。少しでも引き具合を間違えれば、たちまちプツンと切れてしまいそうだ。
「もうちょっと、もうちょっと…!」
身を乗り出して浮きの先を見ている。
その顔は懸命だった。熱っぽく、釣竿を掴む手に力が加わる。
もう少し、もう少し、…
あ!持ち上がった!
釣り針に絡まっていたのは、
水草の塊であった。
それは小汚いビンに絡み付いていて、だらんと釣針から垂れている。
ゴポン、鈍い音がして、水面の底から流木が浮き出た。それは海の流れに沿ってぷかぷか消えていく。
どうやら水底に引っかかった流木に、
釣針が絡んでいたらしい。
「だめじゃん、」
そいつが口を尖らせて言った。
全く持ってその通りである。
落胆しつつも、釣針を引き上げてみる。
一応、俺の釣り上げた獲物だ。傍らに置いて、
水草を摘んだ。ビンは泥まみれで、中身は良く分からない。
手紙でも入っているのだろうか、
別に、そんなもの読んでも どうにもならないけど。
王冠をつまめば、カタカタとゆるんで、取れた。
ビンを逆さに返す、濁った海水がトポトポとコンクリートに流れ出た。水を得たコンクリートが色を濃くして湿った。それだけだった。
悪あがきはやめた、認めるって、
とどのつまり、やっぱり、ただのゴミなのだ。
気が済んだ俺は、再び勝負に挑むべく、
(ムキになってる訳じゃない、メシが無いのは死活問題だ)釣針に絡んだ水草を解くべく、釣竿に手を伸ばした。
カラン、
それと同時に、傾いた手元から、ビンの王冠が転がった。それはそのまま、2人を横切り、どんどん遠くへ走っていった。
すると、
殆ど反射だろう、横の白いそいつは、手足をしっちゃかめっちゃか にして、一直線に伸びるコンクリートのバース奥を注視しながら、動物っぽく四足を地に着けた。
どういう訳か、違和感があった。
腹が減って気が滅入っているのだろうか。
俺は釣針を地面に放って、それに見入った。
そいつは野良らしく、四足のまま、ぐぐっと肩を落とした。ハンティングの構えだ。
くりくりとした黒い目が細まって、転がっていく王冠をじっと捉える。
俺には、そいつが立つ、簡素なコンクリートの道が、ランウェイに見えた。 それは そいつの四肢から真っ直ぐ1本に伸びていて、黒い目はその先の、見えない小さなネズミを捉えてる。
それを見ながら俺は何か、いや、なんだっけ、何か、それに見覚えがあって、さざなみ の音も、カモメの鳴き声も、何も聞こえなくなって、待ってくれ、すごくやなこと、思い出しそうなんだ
あ、飛びかかった
ー人々の、渦みたいな歓声が轟いて、
飲み込まれてしまいそうだ。一歩一歩が重い。
僕はランウェイを歩き続けた。
目前には巨大な檻がある。
ボクシングのリングより、一回り大きなそれは、無機質な鈍色で、見上げるほどの高さがあった。
その中で、ネズミは僕を待っていた。
まるで大人の猪だ。化け物じみたその巨体はずんぐりと硬そうで、毛は逆立っている。身を強ばらせて、対極する僕に向かい、ぎぃぃぃ。と鳴いた。
僕は今から、この化け物を殺さなきゃならない。
反芻した。その言葉は、染み渡ることは無かったが、胸に張り付いて剥がれなかった。
やがてランウェイは終わり、檻の中へ踏み込んだ。
扉が閉められる。僕は閉じ込められた。
「……せ! **◎*△△*!こ~〜…せ!」
観客たちが、口々に叫んだ!
聞きたくなかった、とっても悲しくなる。奴らはくだらないことを叫んでる。
僕はとっさに、目を閉じて、ここじゃない場所のことを考える。広くて遠い、どこか別の場所の事だ。行ったことは無いけれど、いつも思い浮かべるのは港から見る広い海だった。そうすると、心がスッとして、余計なことを考えなくて済むから。
そうして何も感じなくなった、僕の瞳の表面には、じわじわと灰色の塊が、着実に押し迫って来る。
げっ歯類特有の、長く伸びた歯をガチガチ鳴らして僕を脅している。動物的な本能のまま、目の前の手頃なおやつをぐちゃぐちゃにへし折って、嬲るつもりだ。
当たり前だ、この不快な竜巻みたいな喧しさの中で、突然放り込まれて 見世物にされてるんだから。
あちらがそのつもりなら、今すぐにでも飛びつき、切り裂かれてしまうだろう。それ程、ふたつの距離は際どいところまで詰められている。
獰猛な塊を間近に、変に僕の頭は冴えていた。
観客の喧しい声も、ステージライトのまぶしさも、入ってくるのに感じなくなって、目前の化け物だけが、今の僕のすべて感じた。
ー化け物が、わずかな所で歩みを止める、
西部劇のガンマンみたいに、沈黙に身を沈め、
張り詰めた空気の中 2匹向かい合う。
パァン!
ミミズみたいな野太い尻尾を床に叩きつけた。
それはきっと合図だろう。
その発砲音は、僕が感じた最後の音だった。
そいつより早く、地面を蹴りあげる。
舞った砂埃が、わざとらしいライトの中で銀色に光った。
僕はただの動物だった。その巨体めがけ、ケモノじみた四つ足で突っ込んだ。
そしてまた、相手も身を震わせて打ち込んできた!
すんでのところで、僕は赤いマントごと身を翻した。
まるで闘牛士だ。
飛び上がり真下の化け物を見ると、行く宛の無くした剛力に引っ張られ、 檻の柵に突進する直前だった。
振り下ろした、
巨大なネズミの背に、僕の爪がめり込んだ。
肉をえぐる不快な感触が、爪から全身に伝わって、ぞわりと体を震わせた。
そのまま横腹へスライドすれば、赤いドロドロが飛び散って、僕の額のゴーグルを汚した。
ガシャンガシャン!
そんな程度じゃ、その化け物の生を剥がすことは到底叶わない。ネズミは死なない、必死に生きようと無我夢中で檻を駆け、ー壁に飛びついた!
血液を撒き散らし、檻の柵を頑丈そうな手先で掴んだ。重い体で壁を駆ける、逃げた訳じゃない、
ネズミは僕を見据えた。
眼窩には、吸い込まれそうな鉛玉が嵌められていた。僕もまた、それを、じっと見上げた。目を逸らせなかった。
奴が壁を蹴った。
到底叶わない、圧倒的な暴力で
鉄の塊、まるで自動車
巨体が飛んでくる。
その切っ先が、僕の頭を捉える。
気がつけば鼻先に巨大な鉄の塊があった。
僕は高飛びの選手みたいに、仰け反り後方へ跳ねた。
ネズミの太い爪が、僕の額を狙っている。
血塗れのゴーグルが、そいつの剛腕に捕えられた。
剛腕は急降下し、額に掛かったゴーグルを抉る。
重く太い爪が、幅広のレンズにくい込んで、大きな穴を開けた。
巻き添えをくらった僕の体は、そのまま地面に叩きつけられる。
巨体の足元で必死に転がり
轢かれる寸前で身をよじった
身を低くして、体制を立て直す。
歪な穴を貰ったゴーグルをぐいと 掛け直した。
頭に穴が開かなくてよかった。
やり損ねた、と化け物は、少し距離を空け、
機を伺っている。
心なしか、よろりと、立つ足が歪んでいる。
それを観察しながら僕は、
その場にしゃがみ込み、手をついた。
今頃、叩きつけられた体がジンジンと痛む。
心が麻痺していても、体はそうはいかない。
耐えかね、軋んだ腕の骨を抑えた。
右肩をふと見ると、出血していた。
いつのまにか、太爪の餌食になっていたらしい。
肩に掛かるマントを引き寄せて、それを覆い隠す。
歪んだ顔を取り繕いながら、
必死に化け物を睨みつけた。
だが見透かされている。
無音の中、化け物の鉛玉がが弧を描いた。
笑っている、笑ったように見えた。
巨体が揺らぐ、
第二弾が来る、轢き殺される!
鉄塊が押し迫る!
「殺せ!!!!!!!」
観客が叫んだ!
ぶわっ と、僕は肩から布切れを切り離した。
右の負傷を押し隠していた、深い赤。
それは二匹の間に広がり、化け物から僕の体を隠した。
そんな布切れはくれてやるよ。
化け物は布切れに突っ込んだ。布切れで鉛玉の目を隠したまま、僕の真上を飛躍した。
可哀想な化け物の喉元に、潜り込んで切り裂いた。
ぷしっ
誰かにいたずら するために、サイダーの入ったジュースを振って 、吹き出させた時みたいな音だった。真っ赤なあぶくを吹き出しながら、そのネズミは地に伏せた。まだ、手足をジタバタと動かしている。けれどもう、立つことは出来ないみたいだ。
僕の爪先には、殺鼠剤が塗りこんであった。
それは即効性で、タリウムと、近頃開発された対鼠用の薬剤が混ぜものだった。
檻の柵を縫って、スポットライトが僕を照らした。
はああ、と大きく息を吐き出すと、しだいに緊張が解けて、周りの音がわかり始めた。
くだらない八百長試合のラストに、飽きず、観客が、盛り上がり騒いでいる。
僕は何でもない風を装って、地面に散った赤いマントを肩に羽織った。まるでヒーローみたいな優しい顔を演じて笑った。
檻の戸が開かれ、僕は意気揚々とそれをくぐった。
左右に顔を向け、手を振ってみせる。皆すごく喜んだ。
拍手喝采が鳴り止まない。だけど僕の心はしんとして、檻の中に目をやった。ピクピクと痙攣する、ネズミの毛羽立つ耳を見た。こいつも、この拍手を聞いているのかな。
そのまま僕は、何にも知りたくなくなって、ポケットの中、収まったお守りに手を触れた。
それはビンジュースの王冠だった。金色の肌をしたそれは、僕の勝利の願掛けだった。
僕は勝ちたかった。この、くだらない勝負にじゃない、生き物として、勝ちたかった。この泥沼から抜け出したかった。
僕はずっと観客たちの輪に閉じ込められている。
あーあ、爪の隙間に赤黒いのが残ったままだ。洗っても洗っても取れなくて困る。こんなんじゃモモコに会いに行けない。
檻の前で手を振る僕の横へ、
司会がマイクをかざす。
今回はちょっとヒヤヒヤしたよ。まぁ、エース君が勝つことは、みんな分かっていたけどね。どうだい、久しぶりに大きいステージでネズミ捕りをするのは。緊張したかな?
はい、僕もちょっと危ないな、とは思ったけれど、相手が途中よろけたので助かりました。
やっぱり、沢山の人に観られてると、ちょっとは固くなっちゃいますね。
はにかんで、客席の黒いシルエットを見た。
くだらない問いと応答を繰り返した。
それはずっと続いた。
早くモモコの所へ帰って顔を見せたい。
彼女は目が見えないから、正しくいえば、
顔を見せることは出来ない訳だけど、
… でもきっと、お土産話を持って行くよ。僕が大きいネズミに噛まれそうになった話がいい?大丈夫だよ、僕は怪我をしてないし、そいつも怖がって噛んだだけなんだ。…
僕はまじないをきつく握ったまま、ステージに立ち続ける、
…
ー俺は目を伏せるようにして、バケツの中を覗いてた。もちろん魚なんて泳いでいない。かわりに、変わりに目つきの悪い、ボサボサの黒猫が映ってた。
思えば嫌なことだらけだった。輝いていたのは全部上部だけだ。
お守りとはなんだっただろうか?今となっては全く思い出せない。
「みてた?」
じゃれ遊んでいたそいつは、フフンと小さな鼻をならしてみせた。
「カッコよかったでしょ」
そうだね。
「そうだ、それ、ちょっと弾いてみてよ!」
仕留めた王冠を俺に渡しながら、
少しなつっこく、そいつが言った。
どうやら、ご自慢の反射神経でみごとキャッチしてやろうという心づもりのようだ。
はいはい、
俺は言う通りに、王冠をピンと指で弾いて、手のひらから上に飛ばそうとした、その時だった!
あっ!
ぶわっ、と 汗が吹き出した。冷や汗か、脂汗か、これがどんな感情による物なのかは分らない。心臓がうるさくドクドクなって困る。
右の手のひらに乗る王冠を、汚い泥だらけのそれを、俺は、壊れ物を扱うみたいに、親指でそっとなぞった。
泥の下には、見覚えのある金色の肌が覗いた。
ー王冠は俺のまじないだった。
そいつが、どうして飛ばしてくれないの?と言わんばかりにこちらを伺った。
俺は王冠を弾いてやるのをやめてしまう。
かわりに、わざと砕けた風に声を上げた
「これもーらった。」
そして、右のポケットに仕舞ってしまった。
「あー!!!」
なんでしまっちゃうのさ、そいつが不服そうに頬を膨らませるのを一瞥して、ちょっとだけ笑った。
「まじない」
そう呟いて、水面のウキを見た。依然、反応は無い。まじないが有ったって、いつも必ず勝てるとは限らないのだ。
あの時のまじないは、モモコにやってしまった。モモコが勝てたどうかは分からない。いいんだ。もう昔の事だから。
関係ないから、もう何も。
遠く青い海を眺め続けると、心がスッとした。やっぱり考えるのって疲れる。
ポケットの中の王冠を、うっかり海に、投げ捨ててしまおうと、ポケットに手を差し入れ触れてみたが、どうしてもそれはできなかった。
浮きは沈まない。
魚は、いつまでたっても掛からなかった。
2017/3/21